対談インタビュー
人をつなぐ〈縁〉と〈愛〉を大切に。未来への布石を打ち続ける薬局薬剤師
今回インタビューにお答えいただいたのは、東中野セント・アンジェラクリニック院長の植地泰之さん。医師としては珍しい、製薬企業での勤務経歴を持つ植地さんに、医学部入学を決めた経緯から企業にお勤めされていた時のお話まで、現代医療発展の歴史とともにお話をお伺いしてまいりました。
編集者
クラミー
植地さんは、製薬企業にお勤めされていたんですよね。
植地さん
はい。僕が製薬会社に入社したころは、「製薬会社で働いている医師」というのはとても珍しくて、製薬会社で働いているのは実際の医療の現場を知らない人たちばかり、という時代だったんです。薬の開発も海外から10年15年と遅れていて、「海外では教科書に載っているぐらい当たり前の治療薬」が日本では使えない、ということがごく普通の時代でした。海外では当たり前の治療薬なのに、「日本ではこんな薬はいらない」と言われて「日本人は他の人種とそんなに違うのか?」と言い争ったことも何度もあります。
編集者
りょうちゃん
そうなんですか!知らなかったです。植地さんの仕事に対する情熱があるがゆえですね。
植地さん
前例のないことが多かったので必死にやらないとできなかっただけなんですけどね。「海外の薬を日本で使えるようにして、日本の治療環境を世界標準にしたかった」ので、海外と一緒に開発をしたり、海外に遅れずに薬の承認を取る仕掛けづくりには特に一生懸命でした。企業の中のことは公表されることがないのであまり知られることもないのですが、私が「日本で一番最初にやったこと」はたくさんあります。幸せなことに数多くの薬の承認を頂きましたし、その中には手術のやり方や治療方法を根底から変えた薬もいくつもあります。それに、日本に海外のワクチンをいくつも導入しましたよ。ただ、それにはかなり高いハードルがあって。
編集者
クラミー
それはどういったハードルだったんですか?
植地さん
そもそもワクチンの投与方法が日本は皮下注射、海外は筋肉注射と全然違いましたし、日本のワクチンは安全で海外ワクチンは危ないと根拠なく思われていて、「日本に海外ワクチンをもってくるなんてけしからん」という風潮でしたからね。だから国と合意した治験デザインも、1000例の症例をたった6ヶ月で集めて、その後4年間の経過を観察しろ、とか、当時はみんなが「それは無理だ」と思うようなものでした。でもまあ、いろいろと工夫をして10人ほどの小さなチームで予定に遅れることなく治験は成功させました。直近ではある会社の新型コロナワクチンの導入と日本での製造流通の立ち上げをしましたよ。ようやくなんとか日本と海外の薬の差(ドラッグラグ)を埋めることができたので、臨床に戻って自分のクリニックを開設したんです。
編集者
りょうちゃん
植地さんたちの闘いや情熱が、現代の治療の進歩に繋がっていたんですね。
編集者
クラミー
現在の植地さんの仕事内容を教えてください。
植地さん
現在は東京の東中野で内科を中心としたセント・アンジェラクリニックの院長をしています。あとは、コンサルタントや産業医、労働衛生コンサルタントとしていくつかの企業さんのお手伝いをしています。
編集者
りょうちゃん
企業から見ても、製薬企業勤務経験がある植地さんの経歴はとても心強いと思います。医学部を卒業されて、病院勤務の後、なぜ企業に勤めようと思われたんですか?
植地さん
そもそも僕、医学部に行く気がまったくない人間だったんです(笑)。
編集者
クラミー
え!そうなんですか!?
植地さん
法学部志望だったので、高校3年間は文系クラスでした。高校では数学IIBまでですし、理科はあまり勉強しませんでしたし(笑)。ただ、高校3年生の夏休みに少し考えることがあって、遺伝子工学に興味を持ち「生物や遺伝子について研究したい!」と思ったので…、親に内緒で理学部の入試を受けたら、当然のごとく落ちました(笑)。
編集者
りょうちゃん
親御さんに内緒で!?落ちてしまったとはいえ、すごい行動力ですね(笑)。
植地さん
僕、そこで親にもうひとつ秘密をつくってしまうんです(笑)。親は文系の予備校に通うのだと思って予備校代をくれたのですが、実は親に内緒で理系私立医歯薬コースに入学しちゃいました。ただ、普通の理系コースで高校3年間勉強してきた子たちには勝てないと思い、一番丁寧に教えてくれそうで人数も少なかった私立医歯薬コースに入って、その上、先生の家におしかけて数学IIIや有機化学などを教えてもらいました。それでなんとか高校3年分の理系教科に追いつくことができました。
編集者
クラミー
それはバレることなく通いつづけられたんですか?
植地さん
いえ、子どもの考えは浅はかですから(笑)。家に「私立医歯薬コース生の方へ:夏期講習のご案内」というパンフレットが郵送されて来て、あっけなくバレました「病気を治すために遺伝子工学を勉強したい」と言っても親に分かってもらえるような時代ではなかったですから話し合いは大変でした。親は「病気を治すとか医学コースに行っているから医学部に行きたいのだろう」と思ったらしく、「どこかの医学部を一箇所受けること」という条件を出してきたので、まあいいか、と思って、医学部受験を決意しました。
編集者
りょうちゃん
その時の決断が今の植地さんの仕事に繋がっているんですもんね。人生何があるか分からないですね(笑)。
植地さん
そうですね(笑)。その後、約束通り医学部を受験して合格して、「さあこれから本命の理学部の入試だ」…と思ったら、親が「もう入学金払っちゃったからとりあえず医学部に行きなさいね」と(笑)。親の方が一枚上手だったわけです。そこから僕の医療従事者としての人生がはじまりました。
編集者
クラミー
先ほど、高校3年生の時に考えることがあって遺伝子工学に興味を持ったとおっしゃられていましたが、“考えること”とは何だったんですか?
植地さん
僕らの世代ってサリドマイド事件(※1)の世代なんです。子どもの頃から身近にサリドマイドの影響を受けている子どもたちをテレビでもよく見ていました。また、家の近所には病気で顔が変形してしまった若い女性の方がいらしたのです。その方とはいつも同じバス停で会うのですが、子どもの僕にとってはすごく怖い存在でした。でも、小学6年生のある時、小学校の卒業文集の中にその女性の作文を見つけて。
編集者
りょうちゃん
何と書かれていたんですか?
植地さん
「私はこんな顔に生まれてしまって、死にたい」と。ショックでした。小学生の女の子がこんな思いをしていたなんて、と。それで初めてその女性の心のうちを知ったんです。
編集者
クラミー
それが生物や遺伝子に興味を持たれた理由だったんですね。
植地さん
高3の夏休みに遺伝子工学の本を読んだときに、「これを勉強したら生まれつき手がない子どもたちに手を再生したり、傷や変形、治せない病気も治せる薬が作れるんじゃないか?そうしたら、こんな「死にたい」なんて思う人を減らすことができるかもしれない」と真剣に考えちゃったんですよね。アプローチが技術から入るか、メカニズムから入るか、の違いだけのように思ったので、自分の中では理学部に行くのも医学部に行くのもあまり大きな違いはありませんでした。医学部では病気のメカニズムを勉強しようと思っていたので、「この病気だけ」「この領域だけ」では物足りなくなって、なんでも診ることのできる医師になりたいと思うようになったんです。それが内科医になった理由です。
編集者
りょうちゃん
医学部入学後、民間の病院でお金を稼ぎながら学校に通われていたとお聞きしました。
植地さん
そうですね。医学部在学中に父親が急死したので学費をお借りしていたこともあり、家にもお金を入れなければならない状況だったので、日中はお給料の良い民間の透析病院で働いて、夜は大学に戻って研究する、といった生活を送っていました。ちょうど教授に遺伝子の研究をするように言われたので実験を始めたところでした。そんなタイミングで、とある女性の患者さんとの出会いがあって。
編集者
クラミー
それはどういった症状の方だったんですか?
植地さん
たまたま夜に大学に戻った時にICUを手伝っていたのですが、ある日、意識障害の30代の女性患者さんが運ばれてきました。病状的にはシンプルで、親指の先ぐらいの肺がんがPTHRP(※2)というホルモン類似物質を分泌していたため、骨からカルシウムがどんどん流れ出てしまって、高カルシウム血症から意識障害を起こしていたんです。手術してがんを除去すれば済む話だったのですが、当時日本で使える麻酔薬はガス麻酔だけだったので、高カルシウム血症の患者さんには使うことができなかったんです。
編集者
りょうちゃん
今でこそ、麻酔の種類をたくさん耳にしますが、数十年前はそんな状態だったんですね。
植地さん
そうなんです。まずは患者さんのカルシウム値を下げることが最優先だったのですが、当時の日本には治療薬がありませんでした。インターネットもない時代ですから、図書館でいろいろ調べているうちに、アメリカにはカルシウム値を下げる薬があることを見つけたんです。
編集者
クラミー
光が見えたわけですね。
植地さん
そう思ったのですが…、僕がその薬について読んだのは、医学雑誌ではなく、アメリカの医学の教科書でした。教科書に書いてあるということは、アメリカでは約10年前には確立されている知識なわけですよ。それなのに日本ではその薬は承認されておらず、当然上市(※3)されてもいない。そこで、その薬を日本で開発している製薬企業を探して、「治験薬でもいいから譲ってください」と相談したんです。ところが「出せない」と。
編集者
りょうちゃん
え!せっかく見つけることができたのに、ですか?
植地さん
僕らもまったく同じ反応でした。「出せない」と言われても、海外ですでに売っている薬だし、僕らには譲ってもらえない理由が分かりませんでした。詳しい話を聞いてみると承認申請中だったので薬事的に治験薬を使用できない状態だったんです。残念ですが、その患者さんは数週間のうちに小さいお子さんを残してお亡くなりになりました。その経験を通して「海外では当たり前に使われている薬が日本には全然ない」という現状を知り、このままではダメだと製薬企業に入社したんです。
編集者
クラミー
病院勤務から、製薬企業勤務へ。新たな場所での仕事はどう進んでいきましたか?
植地さん
最初僕は開発ではなく、マーケティング部に入ることになったのですが、同僚は医学知識のない人ばかりでした。そうなると、そもそも何を教えればいいのか自体分からないわけです。そこで「毎月ひとつ病気を勉強してくれたら、医学知識と病態が分かるようになる」ことを目的に12疾病を選んで、毎月、パワポでパラパラ漫画のようなアニメーションを使ったビデオと教科書を作って、各営業所に送って勉強をしてもらいましたね。それから後は「こっちで難しいプロジェクトがあるから」とか「誰もやったことがない新規案件立ち上げるので」とか、「この案件誰もやりたがらないから」とかいうたびにいろんな部署を担当させられるので、臨床開発や安全性、製造販売後調査、経営企画、開発企画など、製薬会社のほぼ全業務領域で、日本だけではなく英国、米国の組織の中でも働いてきました。
編集者
りょうちゃん
さっきの治験を6ヶ月で完了させたお話といい、オリジナリティや工夫する力がすごいな、と思います。植地さんの臨機応変な発想力はどこで学んだものなんですか?
植地さん
うちの父がヘンな人だったんですよ(笑)。太平洋戦争が終わった後、アメリカに勝手に留学していて、向こうでアルバイトをしながらスタンフォード大学を卒業して、日本に帰って来てからは大手の企業で働いたり、ロッテリアなどのファストフードやファミレスの出店などを企画・実行してきた…という、当時の日本人にしてはかなり珍しい経歴の持ち主でした。一方、母は日本人初の外資系航空会社の国際線フライトアテンダントで、フランス料理の先生をしている人でした。そういった少し特殊な2人に育てられたのが影響しているんでしょうかね。どんなに状況が悪くて条件設定が常識外れだったとしても、「絶対にできない、ということはないだろう」と思うんですよね。高校時代から父の会社を手伝ったりコンピューターで遊んだりしていたのも役に立っているのかもしれません。
編集者
クラミー
植地さん自身は病院勤務から製薬企業へ、という経歴だったとはいえ、学生時代から企業的な業務に関わる機会があったんですね。
植地さん
そうですね。新しいことを始めると最初は何をすればいいのか分からないことも多いのですが、みんなが「あれはダメ」「ここが難しい」と言っているのを聞いて考えていくと「できる道筋はあるんじゃないか?」と見えてくることが多いのですよね。
編集者
りょうちゃん
学生時代からチャレンジを惜しまず、様々なものに触れてきた植地さんが、今の学生の皆さんに伝えたいことは何かありますか?
植地さん
特に最近思うのは、「“二者択一”で物事を考えないで欲しい」、と思います。例えば、コロナ禍のマスクやワクチンに関しても「つけたほうがいい・つけないほうがいい」「打ったほうがいい・打たないほうがいい」と、とにかく今は“二者択一”で考えることが多いじゃないですか。「論破」とか言って、相手を攻撃してやり込めることが議論だと流れはおかしいですよね。本来議論というのは、お互いの意見や考え方を聞いて「もっと良い考え方や解決策はないか」と創造的に新しい考え方を作り出すための方法です。「相手の意見を否定してやり込めること」は議論ではないんです。「多様性が大切」と言いながら「多様性を認めない人を私は認めない」と言う知識人や政治家がいるのは日本だけです。
編集者
クラミー
確かに、“二者択一”の話ばかりで、「結局これはコロナの話?マナーの話?」と、論点がズレているように思う報道もありました。
植地さん
世の中、いろんな人がいて、いろんな考え方があるのだから、「自分の考え方に基づく「良い・悪い」」の視点だけでものをいうのではなく「相手の視点から見たらそうなるよな~」という共感が重要なんです。僕が大切にして欲しいのは、治療でも意見でも“対する人”のことを理解しようとすること。「あれは良いけど、これはダメ」「自分は正しくて、相手は間違っている」と、ネットなどで主観的すぎる叩き合いが起こっていることに、ものすごく違和感を感じます。
編集者
りょうちゃん
自分と違う意見を「どう否定するか」に、力を込めても反発しか生まれないですもんね。
植地さん
そうなんですよね。自分のやりたいことや、どうあるべきか、が見えているのはもちろん大事です。ただ、他人の意見を否定して戦うことを考える前に、「自分とは違う意見もあるんだな」と一度受け入れて、「もっといい方法や考え方はないかな?」と創造的に考えることを大切にして欲しいと思います。「受け入れてみたら、新しい何かが出てくるかもしれない」という、肯定的な想いを軸に、物事を考えていって欲しいですね。
【インタビューに答えてくれたのは…】
東中野セント・アンジェラクリニック 院長 植地泰之さん
杏林大学医学部 卒業
第一内科という医局に入り、その後公立昭和病院循環器科、三鷹北口病院内科・血液透析科などで臨床経験
大学の医局を辞めて製薬会社に入社、日欧米での勤務、日本法人だけではなく海外本社の上級管理職・役員などを歴任
【注釈】
※1:サリドマイド事件
戦後の経済成長期であった1960年前後に、サリドマイドという医薬品の副作用により、世界で約1万人の胎児が被害を受けた薬害事件
※2:PTHrP
悪性腫瘍患者で見られる高カルシウム血症の原因物質として発見された、141個のアミノ酸からなる蛋白(和名:副甲状腺ホルモン関連蛋白)
※3:上市
承認された新薬の市場販売が開始されること